夫婦の日常と こころの中のこと
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冷たい雨の降る一日。
近所の幼稚園の未就園児のための教室がある。妻は娘とそれに出かけた。
俺は彼女らの留守の間、ゆっくり自室で本を読んだ。正確にはごろごろしていたと言う。
雨音を聞きながら、100年前のポーランド人の書いた、2000年前のローマ人の物語を読む。優雅だろう。
11時ごろ来客を告げる呼び鈴がなった。居留守をつかいたかったが、出た。
子供を連れた女の人がいた。ニコニコして「こんにちは」と言う。知らん人だ。フレンドリーな笑顔を向ける知らん人には、警戒してしまうのが日本人の平均的な反応であろう。
女の人は宗教の人であった。
「この辺りを廻らせていただいてぇ、とってもいい冊子をお配りしているんですぅ」などと言った。いまどきの若い娘のような、語尾を延ばして話す言い方が、彼女の年齢には不自然であった。馬鹿っぽく見える。
「興味ないので、そういうのはいりません」と俺は言った。
「ご覧になってくださいぃ」と冊子を二冊手渡そうとする彼女。「ものみの塔」と「目ざめよ!」という冊子だ。俺にはエホバの証人とは少々の確執がある。
「いらんいらん」と拒否して、お帰りいただいた。わりとあっさり帰った。
この寒い雨の日に子供連れで歩くなんて、どうにかしている。つまらん顔をして付き従っていた子供の目を、俺は苦い気持ちで思い出した。
お前が「目ざめよ!」やろ・・・、だ。
程なくして妻と娘帰宅。
幼稚園では先生の指導で、お遊戯や親子体操を行ってきたとか。久しぶりに体を動かして爽快だった、と妻も楽しそうであった。
その幼稚園は浄土真宗の寺が経営しており、それらしくホールには大きな仏壇がある。今日の会の最後には、皆で阿弥陀さまにおまいりをする時間があったそうだ。
祈りの文句は子供向けか「わたくしたちは、ありがとうと言います。わたくしたちは、ごめんなさいと言います。わたくしたちは、お話を聞きます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」。
妻は「何かいいやろ?」と言う。なかなか含蓄の深い文句だと思う。
ありがとう、ごめんなさいは案外、出ない言葉かもしれない。思い浮かべてみると、普段「すいません」を代用していることが多い。
また他人の話を「聞く」というのはなかなか難しいものだ。他人の話を聞き流すばかりで、心に入れていなかったことを思う。
こういった「気づき」はありがたい。妻が「何かいい」と思ったのも、その辺なのだろうな。
それにしても、エホバの証人は受け入れられなくて、浄土真宗の宗旨はすんなり入ってくるというのは、何故なのだろう。我が家が浄土真宗の門徒だから? それだけではないと感じるが、わからん。
まずは妻に。ありがとう、ごめんなさい、話を聞くを実践したいと思った次第。
近所の幼稚園の未就園児のための教室がある。妻は娘とそれに出かけた。
俺は彼女らの留守の間、ゆっくり自室で本を読んだ。正確にはごろごろしていたと言う。
雨音を聞きながら、100年前のポーランド人の書いた、2000年前のローマ人の物語を読む。優雅だろう。
11時ごろ来客を告げる呼び鈴がなった。居留守をつかいたかったが、出た。
子供を連れた女の人がいた。ニコニコして「こんにちは」と言う。知らん人だ。フレンドリーな笑顔を向ける知らん人には、警戒してしまうのが日本人の平均的な反応であろう。
女の人は宗教の人であった。
「この辺りを廻らせていただいてぇ、とってもいい冊子をお配りしているんですぅ」などと言った。いまどきの若い娘のような、語尾を延ばして話す言い方が、彼女の年齢には不自然であった。馬鹿っぽく見える。
「興味ないので、そういうのはいりません」と俺は言った。
「ご覧になってくださいぃ」と冊子を二冊手渡そうとする彼女。「ものみの塔」と「目ざめよ!」という冊子だ。俺にはエホバの証人とは少々の確執がある。
「いらんいらん」と拒否して、お帰りいただいた。わりとあっさり帰った。
この寒い雨の日に子供連れで歩くなんて、どうにかしている。つまらん顔をして付き従っていた子供の目を、俺は苦い気持ちで思い出した。
お前が「目ざめよ!」やろ・・・、だ。
程なくして妻と娘帰宅。
幼稚園では先生の指導で、お遊戯や親子体操を行ってきたとか。久しぶりに体を動かして爽快だった、と妻も楽しそうであった。
その幼稚園は浄土真宗の寺が経営しており、それらしくホールには大きな仏壇がある。今日の会の最後には、皆で阿弥陀さまにおまいりをする時間があったそうだ。
祈りの文句は子供向けか「わたくしたちは、ありがとうと言います。わたくしたちは、ごめんなさいと言います。わたくしたちは、お話を聞きます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」。
妻は「何かいいやろ?」と言う。なかなか含蓄の深い文句だと思う。
ありがとう、ごめんなさいは案外、出ない言葉かもしれない。思い浮かべてみると、普段「すいません」を代用していることが多い。
また他人の話を「聞く」というのはなかなか難しいものだ。他人の話を聞き流すばかりで、心に入れていなかったことを思う。
こういった「気づき」はありがたい。妻が「何かいい」と思ったのも、その辺なのだろうな。
それにしても、エホバの証人は受け入れられなくて、浄土真宗の宗旨はすんなり入ってくるというのは、何故なのだろう。我が家が浄土真宗の門徒だから? それだけではないと感じるが、わからん。
まずは妻に。ありがとう、ごめんなさい、話を聞くを実践したいと思った次第。
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