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夫婦の日常と こころの中のこと
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鈍色の空。鍵になって飛んでいく水鳥の群れ。墨絵の風景である。


目の前の人参しか見えていないのではないか?
ひとは自分の見たくないものは、本当に見えなくなるものだ。
見たいものだけ見ていればそれでいいじゃないか・・・というひともいる。
だが、俺はそれではいやなのだ。
自分と異質のモノから逃げるのはいやだ。俺はがっつり組み合いたい。


頭を撫でてくれるひととの、ぬるい空気に浸っているのは心地いい。
でも、俺はいやなのだ。進歩がないだろう?


埋もれるような雪の中、吹き付ける北風に向かって、自分の足で立っていたいと思う。
ブレない姿勢こそ、俺の望む姿である。
俺の態度はブレているか?
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昨夜から今日の未明にかけて、俺はとても大切な話を友達とした。

俺は男だから愚痴なんて言わない。格好をつけきるんだ。粋ってのはかえりがねぇんだ。そう俺は啖呵を切った。
友達は、それって格好悪いから、と笑った。
俺の内面がどんなにぐずぐずしているか、知っているからであろう。おそらく、俺が虚勢を張ることで追い詰められているのに、気づいていたのだろう。楽にしてやろうと思ってくれたのかもしれない。
俺は気が抜けて、苦笑いが出た。友達の思惑通り、楽になった。


俺は得体の知れない病魔に取り付かれたままで、夜中まで働いている。休日も職場に出る。
一生懸命働いても思わしくない結果に終わることもある。
対価は必ずしも感謝などではない。罵り、怒鳴り声、時には殴られそうになる。
辛くないわけはない。
弱音を吐きたいと思ったとき、誰に?と嘲笑う声が聞こえる。

友達が俺の辛さの質を理解できたのかはわからない。それでも、質を自分の経験から推し量ろうとし、量を嗅ぎ取ろうとする仕草が伝わってきた。


あのときの悔しさ、辛さ。
涙が出たら、一緒に流れていくのだろうか。
早朝曇り。雲が地上に降りて、幻想的な光景であった。
日中は晴れて、暖かかった。


職場は職場で。患者を「さま」付けで呼び始めた頃から、世の中おかしくなり始めたと思う。敬意を払えとは言わない。常識的であればそれでいい。常識的というのが、抽象的ではあるが。
最初から猜疑心丸出しで掛かられると、モチベーションが下がる。
言いたいことはたんとあるが、それに尽きると思う。

妻は妻でまた、月経の来るたびに塞ぎこむ。次の子ができないのを気に病んでいるのが、わかりすぎるほどわかる。
喧嘩でもしてみればいいかとも思うが、妻も俺もその話題を出すことを恐れている。それでいて、互いを伺う雰囲気の、居心地の悪さを持て余している。
根気良く俺が妻をなだめるべきなのだろうが、同じような言葉を繰り返して済むのだろうか。
かといって、新たな方策も思いつかない。

ネットを開けば開いたで。上手くいっている関係を大切に育めばいいのに、そうではない相手のことばかり気に掛かる。
音信を絶ったかずきのことが心配である。
たぷちゃんのことも消化不良である。
B嬢にもメールを書かねばならんと思うが、自分の気持ちがまとまっておらず書けない。
どれも俺の拙さのために降りかかってきたことばかり、不甲斐ない思いがする。
いつまでも同じことばかり悩みやがって、とW嬢には罵られそうである。己のぐずぐずぶりに呆れる。


驕慢と思えるほど自信に満ち溢れていた若い俺は、何処に行ってしまったのだろう。あの欠片でも残っていれば、こんなに辛く思わないのに。
しかしながら、遠流にされたくらいで砕け散ったのだから鍍金の自信に過ぎんかったのよ、と哂う俺も居る。

患者の挙動に一喜一憂しているようではあかん、と思う。
妻と大切な話のできないようではあかん、と思う。
もっと気楽に人付き合いができないのか、と哀しい。

堅苦しく、不満ばかり言っておる。
自分だけが苦しんでいるとでも思っているのか。
大ばか者である。世の中の紙魚だ。
息している値打ちもねぇ。
冷たい雨の降る夜明け。早朝に目が覚めた。
妻が寝ぼけて「サブロク・・・」と言ったように聞こえたので「ジュウハチ」と答えてやった。満足したのか、そのまま寝入ってしまった。
いったい何の夢を見ていたのだろう。買い物の夢でも見ていたか。
妻子の眠るのを横目に起き出した、まだ暗い朝。陽の昇るまでずいぶん間があった。
早朝覚醒か、と思う。何にしろ、疲れてくるとこうである。自嘲、自重。

昨日は酒も過ごしていないのに、頭が重い。
圧して、軽く勉強したが、気分が乗らないので途中で終了。
密林に発注を掛けておいたので、気分転換がてらに、近くのコンビニに支払い手続きに行く。
朝まだ早く、大気は澄み切って、鳥肌がたつ程度に寒い。心地よかった。
適度に冷えたのか、頭もすっきりしてきた。ごくごく軽い片頭痛だったか。教科書的でおかしい。

しばらくネットで遊んでいると、妻子が起きてきた。いつもの、日曜の遅めの朝が始まった。
妻は俺が早く、早すぎるほど早くに目覚めたと言って、心配している。その気遣いはありがたいのだが、今の俺にはうるさくて処理に困る種類のものなのだ。
「静かに心配しなさい」と言い放つと、妻は黙った。
黙れば黙ったで、俺はしまったと思う。また俺の言葉は刃を持ったか、と思う。
「頭の調子が優れないのです」と、先ほどまでの体の様子を付け加えておいた。言い訳だ。妻の機嫌を取ろうとする自分の卑屈さに呆れる。
妻は「早起きは三文の得だからー。何かいいことあった?」などと朗らかである。
俺が気に病むことなどないのだった、と・・・それはいつものことで、わかっているのだけれど。それさえも、演技ではないかと思ってしまう。
うー。やっぱ今日は狂っとるでー。


今日はゆっくりさせてもらうことにした。療養だ。
ベームのオランダ人を聴きながら、自室で雑誌を眺めていた。



俺の、火曜日の事情を慮ってくれたひとを想う。
事情は火曜日だけとは限らないのだけれど、その実直さ、優しさ、素直さ、ありとあらゆるそのひとに付帯する性質について思い浮かべてみた。涙が出そうになった。

俺のことを人知れず心配してくれているひとのことを想う。
俺の何が、そのひとの心に触れたのかはわからない。不義理なことをしたこともあるというのに、変わらぬ厚情をくれるそのひとのことを想うと、やはり涙が出そうになった。

俺のように、思い悩み続けるひとを想い出してみた。
今でも苦しんでいるのか、案外けろっとしているのか、わからないけれど。俺のためにも彼のためにもならないと、連絡を絶ったことを想ってはウジウジと、決断を振り返る。胸狂おしい。

彼を想うと、俺から逃げたひとを想い出す。俺と議論すると間違いなく負けるとわかっているから逃げたのだ、と教えられたけれど、その通りだけれど、後味が悪い。
そして、俺を独り静かに置き、息遣いを見守ってくれている妻のことを想う。その忍耐強い仁愛に、言葉もない。

俺はそうあるべきものも愛するけれど、ふさわしくないものも愛する。

「なんでそうまでそのひとにこだわるの?」と空耳に聞こえた気がする。
「おっさんになったからしつこいのです」と答えておく。
困ったね。でも、思うより凹んじゃいないよ。

ちなみに、早起きの得は、朝の清らかな空気をぞんぶんに肺に味合わせてやれたこと、だ。

雨に濡れた朝。枯色の草にきらきらと雨粒の光る。

頑張っていることは何ですか? と訊かれて、俺は答えに困っていた。
生きる意味は何ですか? と訊かれて、俺は黙るのみであった。

俺よりもずっと頑張っている人が大勢いる、これしきのことを大変だと言うのは弱音である、と思っていた。
他人から弱いと見られるのがイヤだった。
目標のないことをつまらないことだ、と思っていた。無理に何かを夢見ようとし、思考の迷路に陥っていた。

たぶん、何度も何度も、これから想うだろう。
ぐるぐると螺旋を描く生き様である。

俺の頑張っていることは、ただ生きていること、です。
俺の生きる意味は、それも、ただ生きていること、です。

妻も娘も、友達も、仕事も、俺の頑張る理由や生きる意味にはならない。
俺は俺でありたいから。何かに寄って自分を想うのは好きではない。何かに縛られることに思える。

ただ生きていることを想うとき、安らかになった。
ときに、だらしなく、無為に過ごすこと。
ときに、誰にも真似のできない頑張りをみせること。
誰かを憎むこと。
誰かを愛すること。
自分を縛るのは自分だけだ。


40代も半ば過ぎのご婦人が「四十路すぎると肌を見せるのは医者ばかりですよ」と笑っていた。美しいひとなのに、それはないだろうと思ったが。
今思い出しても、笑える。

晴天。暖かかった。
本格的な冬の始まる前の、この美しい季節を、歳神の名残の贈り物として楽しみたい。

今日の夜中から金曜日の夜中いっぱい、ネットがつながらなくなる。俺のPCの不調ではなく、プロバイダの工事のあるためである。
夜中ネットを常とする俺にとっては、零時からの時間が本番である。大変不便である。一週間のことと我慢するしかない。
ネットの畏友、もうすでにネットだけの畏友ではない存在であるが、その友達に事情を話して、無沙汰の予定を詫びた。


愛犬との暮らしを写真つきで克明に記しているひとがいる。
犬のつぶやきを代書されてある。それがなくても、こちらを見つめる犬のつぶらな瞳が、多くを語りかけてくるようであった。
物言わぬ犬の、なんと豊かな表情を表すことか。
犬にも確かに感情があるのだ、と知らされる。
可愛いな、ユーモラスだな、と思った。
犬のこんな表情を切り取れるひとは、心からの愛情をその犬に注いでいるのだろうと微笑ましく見た。
そして、その犬が保健所から来た犬だと知ったとき、俺は慄然とした。
鼻の奥がつんとした。
胸の底に悔やむ気持ちが湧いた。

正直、俺は犬が好きではない。殺処分を知っていても、事実として知るのみであった。犬の命を想うことは今までなかった。
犬の命と人の命とに差異を作っていた俺であったことを、知る。
いや、人の命すら想っていただろうか。
犬にしても人にしても、自らの私的に関わらない存在の命を、俺は軽く見ていたのではないだろうか。

多くを共にした存在が失われたとき、ひとは哀しむ。
その相手との思い出を惜しむ。
その相手との未来が永遠に失われたことを悔やむ。
誰にでもそのような存在はある。
誰にでもそのような存在になる可能性がある。

そんな当たり前のことを失念していたことを、知る。
俺の大切な存在を愛しむのと同じように、ひとの大切な存在を思いやることを教わった。
なにより・・・、見捨てられそうだった小さな小さな命を貴び愛しむことのできることは、こころ豊かなことである。かくありたし。


犬とその主が、俺にさまざまなことを教えてくれた。
忘れずに、日々自らを律していきたい。

ネットの顔見知り(?)のところで、いいお題をもらったので記す。


言葉ってね、何だろう。
言葉は唇を離れた瞬間に、もう永遠に俺だけのものではなくなる。
それ以前に、俺の言葉は感情に遥か遅れて、息切れしながらついてくるもの、のようだ。
心のうちをうまく表現できない俺にとって、言葉を掛けることは勇気が要ることである。

万感の思いを間にこめて出した言葉が、相手のこころにかすることもなく、捨て置かれることもあった。
俺はそんなときとても哀しくなる。自分の言語能力の拙さに腹が立つ。もっとうまく相手に伝えられたら、その人との関係はどんなに実り多いものになるだろう、と思わずにはいられない。

或いは、ふと口から漏れた言葉が意外なほど深く相手のこころに染み、その人を力づけたこともあった。
そんなとき俺は自分の価値を認識する。相手の役にたてることがどんなに素晴らしい悦びをくれることか、を知ることとなる。言霊の存在を知らされるときでもある。
相手との関係はより深いものとなり、満足を与え合うことになるだろう。


言葉の理解はその個人の経験に則していると思う。
けんかになるような怒りっぽい相手ならば話にもならないが、冷静な議論のできる相手ならばどんなにいいだろう。
各人の言葉の理解に差があることは、悪いことではないと思う。また、関係を作ることに致命的な障害となるわけでもない、と俺は思う。
理解の差がどこにあるかを、何故そうなのかを、知らないことが、知ろうとしないことがいけないのではないか、と俺は思う。
お互いの言葉のわずかな差異は結局は、言葉を尽くして話してみることでしか、縮まらないのではないだろうか。
根気の要る作業である。
俺の認識の歪みを目の前にさらされるかもしれない。怖い、とも思う。
得がたい友達を得られる期待があれば、俺はそれをいとわない。

考え方の違う友達・・・何と魅力的な存在であろうか!
彼・彼女は俺に多くのことを教えてくれるだろう。それは俺の財産となるだろう。


遥か神代の人間たちは、言葉に魂が宿ると信じたそうだ。確かにそうだ。
俺は魂のやり取りがしたいのだ。
耳障りのよい奇麗事ばかりを述べるのは、娑婆の付き合いでさんざんやっている。もう沢山だ。そんな流れていくだけの言葉には魂なんか宿っていない。
悪いと思われる魂の宿った言葉。珠のようなこころを宿した言葉。それらはひとの哀しくて愛しい姿。求めて止まないのはそんな言葉だ。
俺も心に脇差をはさんで、対峙することだろう。

晴れ。雲が薄くかかって、淡い空色が美しかった。


「友達」「友達」と言われて、
ことあるごとに心配りをしてきたのに、
俺が辛いときには知らんぷり。

お前の考えていることがわからない。
お前の言葉はきれいだが、
やっていることはぜんぜん違う。
俺はお前がわからない。

耳障りのよい言葉で飾って、
当たり障りのないことばかり言っている。

「友達」にあえて「友達」とは言わない、と
教えてくれたひとがいるけれど、
まさしくそうかもしれない。

「友達」と言ったお前に俺は幻想を抱き、
お前の不用意な言動に俺は戸惑う。


夕食の話題には不適切な愚痴・・・怒っていいのか、嘆いていいのかすらわからない、これこそまさに愚痴だろう。
気持ちを言葉にするのは難しく、正確に妻に伝わってのかどうか。
「そんなひとと付き合わなければいいんでないが?」ともっともなことを言う。
「でも友達になったんだからなー」と俺が言うと、苦笑いしていた。
星占いでは、友情と連帯の星座である水瓶座のひとは「友達」という言葉には弱い、そうだ。確かに。
「自分が納得せんと、やめんやろ?」と妻の言うのを聞き流し、粕汁をすする。

肌寒い夜である。胃の腑だけが温い。
小雨の降る夜明けであった。辺りが明らかになるころには、雨は上がっていた。灰色の雲の垂れ込める朝。
寒い。そろそろヒーターを出さねばと思う。

朝方、頭痛の予兆あり。片頭痛かもしれない。そんな気もした。そうでない気もした。
出勤中の車の中で、目の前がちらちらしだした。片頭痛だと自己診断を下し、職場に着くなりイミグラン服用。軽快。間に合ってよかった。


仕事は順調。真面目に勤務しているし、今のところ将来にはっきりした不安はない。
仕事のやりがいは感じる暇もないが、ふとしたふれあいに心癒されることもある。
家庭はほぼうまくいっていると認識している。妻の言い分を聞いたわけではないが、表情や俺に対する態度から推測するに、明らかな不満はないのではないかと思う。
子供は可愛い。健康で、親の欲目ながら賢く、申し分のない娘である。もう一人生まれれば万々歳であるのは勿論だが、今のままでも充分俺に力を与えてくれている。
やがて家も完成するだろう。新築の広い家に住む日も近い。借金を抱えるが、経済的に不安になる額でもない。

なのに、何なのだろう? この空虚な気持ちは。
自分のつまらなさ、くだらなさばかりに思いが行く。誰しもが自分よりも格段に優れているように思う。
他人からは贅沢な悩みだと批判されるのだろうが、俺はその贅沢な悩みにとらわれている自分を恥じるばかりである。

指の間から自らの命を粒と落として、分け与え、仕事を続けているように思う。そしてまた、この仕事に意味はあるのか、と考えずにはいられない。
かつて母は、就職したばかりの若い俺に忠告してくれた。そんな仕事は忌むべき仕事で、後生の成り難い仕事である、と。若い俺は、不浄な仕事に敢えて就くことの尊さを思ったけれど、母の言葉はそのままの意味だったのかと思える。
続ければ続けるほど、自問の苦しみに迷っていく。まさに忌むべき仕事である、と。
謎めいた言葉の意味を尋ねてみたいが、当の母ももうない。

みんなどうやって折り合いをつけ、或いは割り切って、日々を送っているのだろう。
仕事に意味を見出すのか。
家族の為にと思い切るのか。
刹那刹那の楽しみに憂さを晴らし、明日に臨むのだろうか。
生きることは辛いことと観念するのだろうか。


真っ暗な夜に、生き難さについて想う。
晴れ。寒くもないが、俺は寒気がする。風邪を引いたのかも知らん。

月曜日のせいか客の入りも多く、店は忙しかった。体調が優れない所為で、勤務が少々辛かった。
昼食の後、10分ほど事務所で横になったら、楽になった。


積み重ね積み重ねしたものがたくさんある。
細かいことを変に覚えている俺であったが、最近の俺は馬鹿になり、忘れていることも多いと思うぞよ・・・。
詳細な言葉は怪しいが、そのときの彩は覚えている。覚えると意識せずとも、心の彩はその時々に鮮やかに刻み込まれ、退色することはまずない。
読みきるのは大変だろう。めまぐるしく変わる彩を追って、それも長い月日のことを一気に追体験するのは、かなりのエネルギーを要することだろう。
それだけのことをしてきたのだ。
あのときが誇らしく、心に染み入るようであり、切なく、憂いを帯びて、快活さに悦びを感じ・・・俺は語彙が続かない。表す言葉を知らない。
いつから、どれだけあるんだろう?
俺はあの日からは間違いなくある。
その日の彩は、夕闇に落ちる一瞬前の、緋色と藍色の、妖しく切ない色だ。まだまだ幼かった俺だと思う。そして、そのことを気恥ずかしくも誇らしく思う。

俺の心は二つだ。三つかもしれない。もっと多いのかもしれない。分裂するたびに個々が小さくなるのではなく、どれも同じ大きさで、どれも大切である。
心はとても不思議なものだ、と思う。たやすく壊れてしまう。しかし、逞しく再生もする。
一つ増えるたびに、再生するたびに、豊かになるのだろう、と思う。


俺は大いなる屈辱を抱えて家に帰り着いたあの日。逃げ帰ったといってもよい。それを世にも嬉しい奇跡がすっかり拭い去ってくれたのだった。
人生なんて、そんなものかもしれない。一日単位で帳尻が合うのも珍しいが。
良いことがあれば、悪いことも起こる。
底に落ちても、いつかひとは這い上がろうとするものだ。
「友達」という単語がどれほど大切な意味のあるものか知った。
世間話をする相手を「友達」とは言わない。俺の認識している「友達」はとても少ないのだ。
賞賛と親密は赤の他人である、ということだ。

ときどき・・・沢山のことを考えすぎて、思い悩んでしまう。思考の迷路に迷うと、俺は悲観的になる。
出口は「言葉」だ。神の掲げる「言葉」なる灯りが欲しくなるが、不信心ゆえ与えられないのではないかと思う。拗ねである。全く子供じみたことが、物事を複雑にするのだった。

すまない。
考えるまでもないことだった。俺に与えてくれたことを想えば、おのずと解ること。
そして、ありがとう。
俺のことを認め、いつくしんでくれてありがとう。
俺は素直ではないかもしれない。しかし「正直に」これからも思ったことを述べようと思う。
賞賛と親密は赤の他人、なのだから。


俺は涙腺が緩くなり、何度も何度も繰り返して見て、目頭が熱くなった。感動した。
それ以上に言葉がない。

俺が想うように「友達」も想い、また別の「友達」も俺たちのことを想う。
ひとりは誰かに支えられているのだ、と知る。
みなが平安にありますように。明日の闘いが無事に終わりますように。

今日も晴れ。少し肌寒い一日であったと思う。

今日の俺は朝から、頭に来て頭にきて。どうもならん。
職場では不機嫌な顔はできないので、営業スマイルに心がけたが。愛想笑いってのは疲れるものであるな!
おかげで勤務が終わったら、溜息と共に抑えていた怒りが倍増して出た。
そういうときに限って、直前をちんたら走る車がいたりして、俺のイラつき加減を刺激してくれるのである。

マツダ・プレマシーのお前!本当に免許持ってるんか!?
お前なんか、車担いで走れ!その方がよっぽど早やいわい!!

職場の傍から、家の傍までずっと追走状態であった。あまりの遅さに、気が狂うかと思った。もう番号まで覚えて帰ったぞ。


はー、俺の今までやってきたことって何だったのよ?
思い出すにつけても、ワケがわからなくなってくる。わかるのは、何の評価もない無駄な作業に時間を費やしていたということだけ。
空虚だ。むなしい。ぽかりと胸の底に穴が開いた。そこから何かがダダ漏れしている模様。

ダダ漏れが完了したあかつきにはヤバイことになっていそうな気もする。ヤバイたって、激鬱がやってくる予感ではないが。だから余計にヤバイのか。

「世間なんかそんなもの。大人になれや」と、ダダ漏れの穴の向こうから、嘲笑いながら諭す声が聞こえる。
あー、ずっと前に俺が魂を売り渡した悪魔さんですね、お久しぶりです♪
いやん、いやん、まだ人間でいたいわ、と思いながらも・・・面倒はもう沢山とも思う。

ダダ漏れが止まらないので、もうそのままにしておく。
幸せの王子の黄金のハートはぱりんと割れたそうだが、人間のハートは割れたりしないから。


愚痴なんか、言葉に凝らすから愚痴になるのさ。もやもやのままで置いておくのも一手か。
いやいや、俺も愚痴りたいよ。
同情を買おうとしていると思われるのはイヤで、男らしくないと思われるのがイヤで、忍耐がないと思われるのがイヤで。つまらないことばかり気にしている。
何だかとても辛いことがあるのに、俺はそれを説明するのも上手くない。

やっぱ言葉に不自由な俺が言葉に頼ろうとするのこそ、悪い冗談だ。
♪悪いな その痛みを癒すのは もう俺じゃないぜ♪
というか、端からお呼びじゃねぇんだよっって話だ。


あれがこうで、それがああで・・・。はらほろひれはれ、である。小難しいことには対応していない脳みその持ち主なので、こういうとき困る。

rinndou.jpgれんげさんから戴いたリンドウの写真。


俺にはリンドウを見ると思い出すひとがいる。
何度も語り合った。なんでもずばずば言うそのひとの言葉は不思議と心地よかった。
そのひとから受けた初めの印象とは違い、さまざまな想いを抱えた深い人柄を知った。
ときに矛盾する感情に苦しむこと、やり場のない哀しみに苛まれることが、そのひとにもあることを知った。
俺の苦悩もそれがあるべき姿なのだ、と受容される安らかさを教えてくれた。
そのひとは暖かい、豊かな感情の持ち主であった。
俺はそのひとの内面のいくばくかに触れたのだと思う。


春の花を見て、そのひとも見ただろうか、わくわくする春の空気を楽しんでいるだろうか、と思う。
夏の厳しさに負けず、日々を送るそのひとの姿に励まされる。
秋の夕暮れの荘厳さに、その美しさをそのひとに伝えたいと思う。
雪の降る寒さに、そのひとの暖かい言葉がほしいと思う。

そのひとは美しい人だ。なにより心ばえが、凛として美しい。
一度見た影も、想像していた通りだった。瞳の強い輝きが印象的なひとだった。

俺はそのひとを愛したのだった。そして、俺は男の肉体をまとっていることを呪ったのだった。
今もなおそのひとを愛している。しかし、その愛はいうなれば、肉体を持たない男女の愛情である。
一般的に言えば、「親友」などと手垢のついた言葉に分類されるだろうが、俺は少々違う気がする。


野辺の小さなリンドウの花が冷たい風に吹かれているとき、背をかがめて守りたいと思う。
花が凍えないように。俺はその花の健やかさをいつまでも見ていたいのだから。
家族のことを想うなら、自分の健康には配慮したいものだ。
健康など、普段意識することも無く過ごしているものは、往々にしてその有難みを失念しがちである。
いったん病を得れば、自分も苦痛を味わうだけでなく、家族も苦悩することになる。それすらも忘れてしまう日常である。
勝手な理屈で自分を甘やかしているのは嫌いである。「できない」の多くは「しない」ということ。

また、自らのエゴのため家族を動かすのはどうかと思う。特に子供などは要注意。
親であれば、子供の望みはすべからく叶えててやりたいと願う。しかし、それが為にならないならば、諌め止めるのが親の役目だろう。
あの時俺を諌めた母の気持ちは、親になった今やっと解る。その意味をこころに刻みたいと思う。

他人のものを盗むのは悪いこと。幼稚園児でも知っている。
他人の持ち物が羨ましくてどうしようもないこともある。しかし、盗まないでいるだけの自制心を持つのが大人というもの。
他人を悲しませて得る喜びなど、空虚なもの。
他人の不幸の上に、自分の幸福は築けない。
目も耳も塞いで悦楽に酔うなど、恥知らずなことである。

俺は今までに二度本気で自死を想ったことが在る。願うのは何度もあった。
遂行しなかったのは、実にくだらない理由だ。
俺は妻より少しでも長く生きていなくてはならないからである。
なぜなら、妻はあの通りのぼやけた女であるから、俺の葬儀一式を執り行うことなどできないと思うから。
それは半ば冗談、半ば本気の理由であるが。
なによりは、妻は寂しがりであるから、俺のいない彼女の日常は哀しく切ないものになるだろうから。

妻の人生をより豊潤なものにすると心に誓って、二度目の結婚生活を始めたのである。
俺は「豊潤≒苦労の無い生活」だと、短絡的におもっていたが、そうではないかもしれんと思い始めた。
苦労も二人でいればこそ。悩むのもお互いが大切な存在であればこそ。
幸せや喜びと同じく、これらも二人の人生の彩を深めるものだろう。多くの感情を共にしていることが「豊潤」なのではないか、と思う。


秋の夜長に思索する。正解が何なのか解るはずも無い。考え続けること自体が正解かもしれん。
何にしろ、自らの心に恥じることのないように生きたい。

小雨もよう。
近くなったという彼岸を想う。父と母とを想う。
そちらの暮らしはいかがですか?と問いかける。


朝から頭の中に霧がかかったようであった。ぼんやりと。頭脳の働きが鈍い。
どんなに悪くなっても、俺の頭脳はクリアなままであったのに。精神活動の遅滞。
いぶかしく感じながらも、思考はぼんやり。

娘が飛び跳ねて騒いでいるというのに、居間で寝入っていた。ぐうぐうといびきまでかいていたという。
「疲れた感じだったよ」と妻が教えてくれた。

それが午前で、午後からもまた寝た。嗜眠傾向が出たか、とも思う。
妻に愚痴ってみた。

「あーあ、もう俺こんなんじゃ、死んじゃうよー」
「あー、先生が死ぬんやったら、あたしとっくに死んでるってー」
「朝から、気づくと寝てばっかりです。どうしたんかと思う」
「ほれ、普段寝てないから寝貯めするんでない? 休みくらい寝とけばいいってー」
「だらしねぇやろ?」
「ううん。丸くなって可愛かったー」
「・・・・・」

いかつい体格の若くもない男の寝姿を見て、可愛いと言うこの女。センスが独特とでも言おうか・・・。
恐るべし、だ。

ちょっとしたことを捉えては病状を心配する俺に比して、妻の鷹揚な構えはどうだ。
一人なら、俺はきっとどん底まで堕ちたような気がする。
妻と話していると、ほんわかした温かいものが伝わってくるように感じる。
妻の優しさは母体だ。それに守られて、俺は丸くなって眠る胎児だ。

晴れ。湿度高め。不快な天候であった。
今朝はまだ暗いうちから目が覚めてしまった。それっきり眠れず。通院日だからちょうどいい。医者に土産話ができたわい、と思った。
今日は昼前の診察予約である。あまり調子が良くないからというか、疲れているからというようなことを妻に告げて、時間まで自室で過ごした。
ネットをしてみたり、雑誌を眺めてみたり。興味の喪失は酷くないようだ、と自己確認。

通院して医者に相談。
①思考が100かゼロの両極端になりかけているのを自覚していること。自覚していても止められないこと。
②些細なことが気にかかり、悲観的な展望を思い描いてしまうこと。
③朝方は少々気分が重いこと。夜には、むしろ多幸感すら感じること。
④寝つきに問題はないが、たびたび目の覚めること。睡眠時間は短い。殊に今朝は短時間で目覚めて眠れなかったこと。
⑤甘いものが食べたくなること。
どうみても、状態が悪い方に向かっている。
ゾロフト終了からアモキサンの効果が発現されるまでのことか、とも思う。すると、薬がなければ俺は相当に危なっかしいということか。
アモキサンを少し増量。
いつまでプシってるんだろう、と自嘲が出る。


帰宅後、妻と餃子を作る。
宇都宮の餃子特集を見たそうで、急遽食べたくなったのだとか。
宇都宮はニラの大産地であり、中国東北部に出征していた宇都宮の連隊が餃子を伝えたとかで、名物になったのだそうだ。テレビ番組から得た雑学を、妻から教わった。(知っていましたか? Wさん(笑))
宇都宮の餃子は、ニラと合いびき肉のみで作るのが本当なのだとも。(知っていましたか? Wさん(笑))

我が家はそれでは不満。こころもちニラを多めにしたが、いつもどおり玉ねぎ・キャベツ・にんにく・生姜も使用した。
ダイニングテーブルで夫婦二人、黙々と餃子を包んだ。娘も手を出してきたが、俺に軽く叱られて引っ込めた。傍で手元を見るのに一生懸命で、俺の目の前に頭が出張ってきてやりにくい。手を出さずとも邪魔っけなのは変わりない。
ま、そのうちイヤでも手伝わせるからしっかり見ておけよ、と思っておく。
しかし、子供のことだから、飽きて、また手出しを始める。テレビの子供チャンネルを入れてやったら、すぐさまそちらに行ってくれた。
「調子悪い方に向かっていてねー」「そっかー」「季節の変わり目だしなー」「今年はお天気変やしー」というような話を二人交わしながら、静々と作業続行。
皮は百枚用意したが、七十ほどで餡が尽きた。半分喰う分で、残りは冷凍チーム。

ホットプレートで焼きながらの夕食。熱々で汁気の多く、美味であった。
ただ、餃子に時間を掛けすぎて・・・。
奥さん、飯と餃子だけってどうよ? と思う。

彼岸の入り、というのに真夏日。今年は萩の花の色も鮮やかではない。


嘘つきは嫌いではない。上手な嘘つきならば。
すっかりばれている嘘をつき続ける、下手な嘘つきが嫌いだ。

どんなに親切気な言葉を吐いても、彼のそれには温度を感じない。俺は知っているから。
もしかして、彼は嘘だと思っていないのだろうかと、疑ってみることもある。しかし、真実とははるかにかけ離れたことを言っているのなら、どう考えても一般的に、それは嘘だろう。
嘘つき嘘つきと、心の中で罵りながら彼の言動を見る。
「知っているよ」と一言告げられさえすれば、俺は楽になるのだろうか?
いいや。バツの悪そうな彼の表情を見るのが、俺は嫌なのだ。下手くそな言い訳で取り繕おうとするのを聞くのが、俺は嫌なのだ。
知らないふりをしているのは彼のためではないのだ、まったく俺のためなのだ、と知る。
だったら、「彼の嘘に気づかぬふりをするのには疲れた」などと、俺は言ってはいけない。

一見優しい彼が、本当は冷たい人だと知った。たまたま信じた相手の冷淡さを知って、だまされたと勝手に恨んでいるだけとも言える。

恨むなど・・・。気力の要る感情は捨ててしまいたい。
情念の強さに辟易することである。
俺は混乱している。
たいへん辛い。


悩み深いだけの私生活なら要りません。患者さんにだけ尽くす生活で結構です。
いっそ、仕事をするだけの機械のようなものになりたい。
最低限の私生活が許されるなら、妻だけに心を許す狼のようなものになりたい。

「人間を辞めて久しい」などと自分をちゃかしてみるのに、ちっとも辞められない。それがうんざりするのか、愛しいのか。
Aさま、どうか俺のくそ甘っちょろい精神を叩きなおすお手伝いをしてください。
晴天。高く清んだ青空。しかし明日から崩れ始めるらしい。
妻に布団を干すように指示して出勤した。階下の駐車場から見上げると、妻がベランダで布団干しの準備をしているところが見えた。
「よしよし」と、従順なところを確認した途端に安心。嫌な亭主だなあと思い直し、自嘲する。
ベランダの妻を念をこめて見つめたが、振り向きもせず。俺にテレパス能力はないらしい。
「いってらっしゃ~い♪」とかいうのを期待していたのだけどなあ・・・。

季節モノの客が大勢来た。
機械的にこなせる仕事は楽チンと思っていたが、すぐに嫌気がさした。
俺は短気なのだ。刺激がないとあかんのだ。
忍耐とか辛抱とか、俺の嫌いな言葉が脳裏に貼りついた。


人間関係の難しさに溜息の出ること。
俺は排他的な雰囲気を周囲に撒き散らしている、とでもいうのだろうか。
薄いなりに喜怒哀楽はあると思う。
親しい人には親身にしていると思う。
しかし、「手に入った気がしない」という言葉がまた、俺を引きずり込む。

そんなことをぐずぐず考えてしまうことがあった。
「俺ってだめだめ君♪」に陥る思考パターンだと思い至り、からくも留まった。

「もっと自己評価高くていいと思うよ」
「かなりな浸透力でつ☆」
脳裏に刻み込まれたそれらの言葉と、妻や娘の丸い姿が、俺の碇なのだった。
美しい秋晴れの一日であった。

安倍総理が辞意を表明した。巷はそのニュースで持ちきりであった。
内閣改造と所信表明をした直後に辞めるとは・・・
「ゆってることがさっぱりわからん」のは聞いている方だけではなく、言ってる方もわかってなかったか。
言動に責任を持ちたまえ、と俺でさえ思う。

おかげで、妻とはなし崩し的に仲直り。
原因が原因の、「どうでもいいわい。犬も喰わない」風のことであったから。
何事も無かったように、世間話を楽しむ夫婦の日常に戻る。
時折そっとため息をつきながら、相手との差異を確認し合う。


酸いものを食べても飲み下せるように。
苦いものを食べても吐き出さなくなるように。
酸味には爽やかさを感じることができるだろう。
苦いものにも、旨味のあることを感じることができるだろう。
意に沿わぬものも、自分の体調に合わせ緩急自在に消化できるようになっただろうか。

灰色のものを灰色と言うのに、何を躊躇うことがあるのだろう。
より黒い灰色だとか、白に近いなとか。細かく分類し名づけ合わねばならないとは、なんて堅苦しいことだろう。
灰色と区分される幅広い明度に包まれてしまえば、こんなに楽なことは無い。
灰色の暖かさが心地よくなる。
俺の指先もずいぶんと灰色になっただろうか。
八月の終わり。
今週の初めからの雨は止まず。しとしとと降り続けて、秋の訪れを思わせる。
夏の疲れの色の濃い草木には、恵みの雨ももう遅いか。

今週は忙しかった。週明けから週末まで、大小の事件続発であった。
プライヴェートはあって無きが如しの態であるが、こちらは無いなりに落ち着いていた。精神状態も安定していた方だと思う。事件による当たり前の気分の上げ下げは勿論あったが、正常の範囲であろう。


週末にかけて、友達よりメールあり。「死にたい」そうである。穏やかではない。
彼は俺とは別な事情によりであるが、生き物は自分から死にたいとは思わないのが健常な状態であるからして、全く正常とはいえない状態なのだろう。
何が彼に起こったのか?
それでどのような気分にあるのか?
どれくらい本気で言っているのか?
全て謎である。なにせ彼は今までの事情を詳しく語らないのだから、わからない。
「死」などは俺のもっとも反応する語句である。何らかのアクションを起こさずにはいられないだろうと、彼の想定するところなのだろうか。だとしたら、大いに不愉快ではある。
しかし、男が男に「辛いのだ」と告白するのは結構勇気の要ることだ。(そうでない男もおるがw)ましてや「死にたい」などと、弱音と捉えられかねない言葉なら言わずもがな。

死んではいかん、と説くつもりはない。自死を想う人に、それを否定しては話が進まないからだ。
死んで悪いということもないが、生きていて悪いということもない、と俺は思う。
「生きていて良かった!」と喜び叫ぶ気分ではないが、「死ななくて良かったよ・・・」と呟くことはできる。それが今の俺の気分である。

その程度の答えを彼に提示できると思うが、俺の畏友は返事などすべきでないと言う。
曰く、死にたいと言うほど辛いときのみ頼ってくる奴は相手にするな、と。優しさを当てにしているのだ、と。
一理ある。

彼に返事はしていない。
心の底で蠢くコレはなんだろう。熱と冷たさのせめぎ合うような。むずむずする感覚の名前を探している。
秋口に差し掛かったゆえ、発情したのかもしらん。若い時分から俺は秋はいかんかったのだ。・・・そんなことを思いつき自嘲することである。
蒸し暑い。

午前中、通院。
ここの医者は冷房が嫌いらしく、診察室が暑い。
今日は話すことがたくさんあった。
心の弱さと鬱病についての問題。まだこだわっているのが、われながら情けない。
「心の弱さと鬱病とは何ら関係のないことです」
「他人はいろんなことを考えて言うもんで、解ってない人もいますから、気にしないでおきましょう」
主治医の答えはこのようであった。

気にしないようになりたいものだ。言ったやつへの反論の機会すらないのが、悔しくて悔しくて。
考えてみると、機会が奪われているのなら、もうそれは俺の問題でしかない。心を切り刻むだけなのだから、もう相手も自分も許してしまおう、か。
誰も憎まず、許してしまおう。
胸の底の熾火もやがて消え、白い灰になってどこかへ飛ばされて行くだろう。

調子の優れぬ時期に嫌なことが重なり辛かった、ということで処方内容に変更はない。


七夕さん。忘れていた。妻が去年買った造花の笹を出してきたので、思い出した。
願うことはひとつだ。
終日雨。梅雨めいた天気だった。九州では大雨らしい。被害が出ぬことを祈る。


表面を飾り立てただけの言葉の空虚さを見分けられるようになった、と思うのは俺の驕りだろうか。
心が少し哀しい時のほうが、ひとのまことが見えるように思う。
職業上の事情、権力関係の事情、体調の事情、さまざまなことが、俺の人間関係に影響を及ぼした。
ある人は全く去り、ある人は距離を設け、ある人は時折の気遣いをくれ、またある人は変わらぬ情を示してくれる。

俺には壁がある。
俺は自分に自信がないのだった。それをひた隠しにし、殊更大きく自分を見せることに努めた愚かな頃もあった。それとて同じこと。
他人と親しくなり始めると、あえて自分から離れてみたり。
自分が他人に好意を持たれるようではないと、おかしな確信があるがためのこと。
自ら他人との間に壁を作ってきたと思う。


どこにでもあって、誰もが感じているだろう、一見小さな不満。でも、それには回答がない。それぞれの想いがあるのみ。

そう言いながらも、待っていてくれるだろうと思っていたのは俺だ。
そう言いながらも、待っていてくれなかったらがっかりしただろう。
そして、俺ががっかりすることを見越しているのだろうと、俺は思っていた。

思考の迷路に迷い込んで苦しみぬいて、ようやく見つけた言葉にこそ、ひとは心動かされるのだろう。
『たとえどんな波がこようとも、しなやかに受け止められる広い気持ちを持てるように』
俺もかくありたしと思う。
曇り。ほんの少しの雨が降った。
緑の多い田園の道である。足元から蒸気の立ち込めるのを感じる。
熱く湿った風がまとわりつく。

マンションの花壇のサルビアの赤い花が、夜目に鮮やかであった。そこだけ色があるような。
ネットの友達の言った言葉がよみがえる。
俺を追い込んだその人が許せないのか、無邪気な言葉に過剰反応した俺自身を許せないのか。
何だかよくわからない。どっちもなのだろうか。
というより、それについての思考がブロックされている。考えるなということか。
ただ・・・俺の脳の暗闇の中、その言葉だけがくっきり浮かび上がっている。緋色のサルビアのように。

「心が弱いのはあかんの?」と妻が問う。
「あかんらしいです」と俺が答える。
今までにも夫婦で、何度も同じ質疑を交わした。
「弱い=悪い、強い=良い」の考え方では心などは計れないものだ、というようなことを妻は言う。
もし心が弱いのが欠点だとしても、俺自身がそれで全て否定されるわけではない、というようなことも言う。
妻が、言葉を探しながらとつとつと語りかけるのを聞いていると、頭の芯がほぐれていくようでもある。
その一方で、こんな些細なことに捕われてしまう自分が情けなくある。妻にこんな話しをさせる自分も嫌いだ。

蒸し暑い。曇り空で、降雨はなかった。不快指数は高いもよう。

昨日はNHKで、鬱病患者の職場復帰についてのドキュメンタリーがあった。今日は、タレントの高島忠夫さんの闘病記のドラマが放映されていた。
日本の自殺者の増加と、その多くに鬱病ないしは精神疾患の関係がいわれているゆえ、啓蒙の一環であろうか。
NHKで紹介されていた企業のように、メンタルヘルスを重んじ、鬱病患者に理解の在る職場はまだまだ少ないと思われる。しかし、あのような企業の様子は、鬱病患者だけではなく、健常者のためにも好いことである。
上司や管理者が、偏見にとらわれず正しい知識を持って、対処してくれることを望まずにはいられない。
高島忠夫さんは俺と比べるとずっと重症で、気の毒でしかたない。俺にも思い当たる姿がいくつかあり、いたたまれなかった。
「何故?」と思われることが言動に多く現れる。それは病気の所為なのだ。
そして、その病気は誰しもが罹る可能性がある。


心が弱いから鬱病になるんだ。
甘えているんだ。
誰よりも病人自身がそう思って、自分を責めている。気合でなんとかできれば、それは病気ではない。

心が弱いから鬱病になるのか、鬱病になったから心が弱くなったのか。俺も本心では疑っているところが、まだある。
それでも、俺は「必ず治るはずだ」と自らに言い聞かせて、二週に一度の精神科への通院を欠かさない。
妻は「治る病気。ゆっくり焦らずいこう」と、ときに自暴自棄になる俺を諭し、支え続ける。
そんな生活が三年にもなるだろうか。
精神に影響を及ぼす薬など、誰も飲みたいわけはない。薬で得られる眠りだって、好きなわけではない。
ただ治りたい・・・その一心だ。

ずいぶんと回復傾向にある俺ですら思う。
「心が弱いんだよ」という言葉の残酷さ。何気なく言い捨てられる冷酷さ。
知らない人に言われるならまだしも、知人に言われるのはよほど苦しい。
こころの痛さ。こころが痛むなどとは知らなかった。
「こころ」などという臓器はない。なのに、そこに痛みがあるのだと肉体が訴える。

自らを奮い立たせることができないなら、心が弱いなら、居場所すらないのか。
だったら、もう死ぬしかない。

「人は所詮独りだから」と言いながらも、自分にできることを探す。俺の両手ができることには限りがあるというのに。
中途半端な手助けをするのが心苦しく、見つめ続けることの辛さを知りました。それはよほど辛いことでした。

弱さをしって受け入れた後の、何にも動じぬしなやかな強さに感動する。
苦難の中にいて、未来の輝きを見出して、信じ、一歩前に出ようとする姿の眩しさ、鮮やかさ。生命の煌めき。

踏んだ地はゆるいか固いか?
ゆるければ注意を払い、固ければそのまま行けばいい。
なにより踏みしめた脚の逞しさをいったらどうだ!
遠くを望む瞳の光の強いこと!

俺はその歩みを信じています。
賢いあなたが、取り込み消化し、より豊かなひとになるだろうと、確信しています。
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